レイディの真理大学というかであいとかに思いをはせている。まだえっちなところまでかけてない
2026年3月20日
ベリタス・レイシオという名前を、私は入学する前から知っていた。学術系雑誌の特集やドキュメンタリー。そして、大学の紹介パンフレットで見かけたことがある。
医学、数学、物理学──いくつもの分野で学位を持つ学者であり、第一真理大学では五十を超える講義を受け持つ教授。博士号は8つ。
オムニック<機械生命体>ではないらしい。とにかく有名で、分野の数だけ肩書きがあり、そのどれもが本物だという。
そんなとてもすごい教授だというベリタス・レイシオという名前が載っている人の写真が、石膏仮面をかぶった写真で驚いたのを覚えている。その仮面は、彼の肩書きと同じくらい現実味がなかった。
噂では彼の授業は難しすぎて、学生が一ヶ月よりはやくで消えるとか。
とはいえ、私がその人物と関わることになるとは思っていなかった。
私が第一真理大学に入学したのは、普通の学生より少し遅かった。事情があった、とだけ言っておこう。とにかく私は、ぴかぴかの新入生にしては年齢が周りよりも数歳高かった。
年齢が少し高い新入生なんて、浪人だなんだとあるのだから珍しいものでもないのだろうが、周りより年齢が高いと先輩だと思われる場合もある。
そして困ったことに、履修の相談まで持ちかけられることもあるし、愚痴だって聞くこともある。
「おのれベリタス・レイシオ……。あんなの、教育者の皮を被った暴君だ……」
こんなふうに、心を折られた人間の、魂の抜けたような顔を見ながらの愚痴を聞くことになって、もうずいぶん経つ。目の前で突っ伏している後輩――本来なら同学年のはずだが先輩風を吹かせることになっている――の背中を、私は手近にあった冷たい炭酸水の缶で軽く叩いた。
「はい、お疲れ様。とりあえず飲んでみてください。少しは頭が冷えるだろうから」
「……ディセさんは、あの石膏頭が怖くないんですか? 『君の脳細胞は炭酸の泡より中身がないらしい』なんて言われたんですよ!?」
「それは……まあ、確かにキツイね」
私は苦笑いしながら、ハンカチも差し出した。
ぽろぽろと泣きじゃくる彼を眺めながら、私はどこか冷静に、掲示板で見かけたあの石膏仮面の男を思い浮かべる。まだ噂話くらいしか本人知らないというのは伏せたままである。
「でも、考えてみてよ。教職にある人が、ただ年若い人を馬鹿にするためだけに、あんなにエネルギーを使って厳しい物言いをするの? もしかしたら、あなたが気づいていない破綻を、彼なりに指摘しただけなのかも。彼、教師なんだから」
「そんな……あれが『教育』だなんて、誰も思いませんよ!」
「今はつらくて感情的になっちゃってるから、ぜんぶ攻撃的に聞こえるのかもしれないけど、あの教授にはあの教授なりの……正答に辿りつかせてないとっていう、突き抜けた思いや誠実さがあるんじゃないかな……? まあ、チョークを投げるのはどうかと思うけれど。頭にきて授業からでてきてしまったのはあなたなんでしよう? こんなもの辞めてやるって。辞めろなんて言われてなんかないだからしれっと続けちゃいなよ」
「それは……」
そんなふうに、私はどこまでも他人事として、彼を擁護すらしてみせていた。私にとって、ベリタス・レイシオという人物は、あくまで「厳しく極端な教育者」という記号に過ぎなかった。
きっかけはわからない。けれど、こうして泣いている人に飲み物を差し出したり、もっともらしい理屈で宥めたりしているうちに、自分でも呆れるほど、自然にベリタス・レイシオへの愚痴を聞く専用の窓口が完成していた。
私は別に心理学を専攻しているわけでもなければ、メンタルヘルスの教員でもない。それなのに、気が付けば彼への不満が自然に流れ着く「終着駅」のような役割を押し付けられている。きっかけはわからない。泣いている人がいたのでハンカチか飲み物を差し出したら、気が付けばこの状態になっていた。
よく聞くのは、バカやアホを見ると死にたくなるから石膏を被っているという噂や、チョークが飛んできたという話。質問に答えられないと減点とともに投げつけられるチョークで容赦なく絞られただの。 そんな他人事の不満を聞き流しながら、私は彼を、自分とは一生交わることのない「学術界のアイコン」として見ていた。ちなみに、横を向いたバストアップの石膏の形をしている。
噂に聞く彼は、バカやアホを見ると死にたくなるから石膏を被っているだとか、質問に答えられないと減点とともにチョークを投げつけるだとか、散々な言われようだった。そんな他人事の不満を聞き流した。
彼のような人物がなぜ、一介の教員としてこの場所に留まっているのかさえ、私には理解しがたかった。行き過ぎている知性の中に生きて、世の中のたいていは物珍しさだけ。あとはすぐ人にも事象にも飽きそうなのに。わかってしまうことが多すぎるから、彼にとってこの世は、刺激が少なくて退屈そうだな、などとも。
──まあ、私の勝手な想像だけれど。
だから私は、その人物と関わることはないと思っていた。
公開講義を覗いたときも、あくまで安全な柵の外から猛獣を眺めるような感覚だった。
近づく理由も、近づける理由も、どちらも自分にはないと思っていた。
部屋に生徒らしい姿は少なく、関係者らしい席にまばらな人影があるばかり。席は部屋の広さのわりにがらがらで、もう終わってしまった後なのかと不安になった記憶はまだ残っている。
講義が始まったとき、私は少し驚いた。本当に石膏の仮面をつけていたから。
「……愚か者が。その数式は、君の貧相な想像力を誇示するための道具ではない」
第一声がそれだった。
仮面の奥から響く声は、驚くほど理知的で、同時に容赦なく冷たかった。話は端的にまとまっていたものの、前提知識が要求される水準が高すぎる。板書される内容と話の内容を必死に書き起こそうとして、私はすぐに、自分が何を書けばいいのかさえわからなくなっていることに気づいた。ただひたすらに愚かなのだろうな、と察した。心が折れる感覚を擬似的に味わったわけである。
この感覚が、彼の授業ではずっと続くのだろう。
まるで、呼吸するための酸素さえ「知性・知識」というフィルターで選別されているような息苦しさ。
だから私は、彼の授業を取るつもりはなかった。無くしたのかもしれない。ただ、公開講義を覗くくらいなら、安全な柵の外から猛獣を眺めるようなもので、実害はないだろうと思っていたのだ。
噂では学生にチョークを投げるときいていたし、実際その場面にも鉢合わせた。
その講義中にも一度、鋭い放物線を描いてチョークが飛んでいった。隣り合って私語に興じていた男女の組み合わせへの、言葉より速い叱責。
「知恵を分かち合う場において、騒音は害悪でしかない。……退出を」
仮面の下の表情は見えない。けれど、その立ち姿があまりに堂々としていて、隙がない。
やっぱり、この人と関わることは二度とないだろう。
この人は、私のような凡庸な学生の思考の迷路に付き合ってくれるような人間ではない。
……そう確信して、わからない単語を抱えてアーカイブ室へ逃げ込んだ。
公開講義が終わったあと、彼の話していた単語や、内容が気になってしまった私はアーカイブ室の道のりを思い浮かべながら、もう一度子授業の内容を思い出してみようとする。華胥理論における認識劣化仮説だとか、なんだかそんなようなことを言っていたと思う。
理解できなかったから、なんとなく知ろうと思った。それが一番適切だ。せっかく第一真理大学にいるのだし、せめて講義で出てきた単語くらいは、調べてみようと思った。
調べるなら図書室か、アーカイブ室になるのだろう。
気がつけば行き慣れない通路から出て、そのまま電子アーカイブ室に入っていた。
壁際に並んだ学術データベース端末の一つに腰を下ろす。
講義で出てきた単語を打ち込む。
表示された論文の中から、それらしいものを選んで開いた。長い。異様にしかも難しい。画面を埋め尽くすのは、記号の羅列のような数式と、日常ではまず耳にしない専門用語。スクロールしてもスクロールしても、理解の及ばない「知」の断崖が続いている。まるで、暗号解読でも強いられているような気分だ。
それでも、あの仮面の教授が口にしていた端っこだけでも掴みたくて、私は必死に視線を滑らせた。だんだんと部屋に人が増えて、いなくなるような時間が過ぎたと思う。
端末の画面と手持ちのノートを見比べながら、わからない単語をいくつか書き出す。
たぶん、ここから読めばいいのだろうと思うようなものをえらんでいく。
そのとき背後から落ち着いた声がした。
「遠回りな選び方だな」
振り向くより早く、隣の検索端末に、白く長い指先が伸びた。
迷いのない、鍵盤を叩くような鮮やかな打鍵音。ちらりとみえたのは白衣を着た背の高い男性だ。教員なのだろう。胸ポケットに揺れるIDカードのストラップが、私の肩をかすめるほどの距離を通る。
「それは華胥理論の基礎論文だ」
見慣れない男が画面を手早く文字を打ち込んでは開いて検索結果がずらりと並ぶのがみえた。彼が画面を掠めるように操作するたび、砂嵐のようだった検索結果が、まるで意思を持ったように整理されていく。
「初学者が読む順番としては効率が悪い。初学者がこれに手を出すのは、泳ぎ方を知らずに大海へ飛び込むようなものだ。時間の無駄だろうな。泳ぎ方を知らないままに溺れようとするものではない」
彼は上から何個目かの論文を一つ開いた。彼は無数に並んだ項目の中から、一瞬の澱みもなく、特定のレビュー論文を呼び出した。何度も読んだことのあるような迷いのない正確な手際だった。
「理解するならまずこのレビュー論文だ」
そこで一度、彼は端末から手を離すと、足を後ろに半歩下げ、ようやく私を視界に収めるように首を傾けた。
視線が合う。思ったより高い位置に目線がある男性だな、と思った。ずっと見上げては少し首が痛い。これまでで見かけたことはない顔だとおもう。非常勤勤務の教員などなのかもしれないなと思った。
「君はその分野に興味があるのか?」
突然の問いに、少しだけ言葉を探す。
「いえ……そういうわけではなく、とある講義を聞いても何もわからなかったので……」
端末の画面を指さす。華胥理論と、情報劣化モデルだとか、位相遷移仮説だとか、そんな単語が並んでいる。元はレイシオ教授が例に出した、位相霊炎の話題からこの話になった。位相霊炎が、宇宙中のどこでも好きにテレポーテーションを可能にするようなものだからここにつながったはずだ。華胥理論と情報摩耗の相関モデルは違う話のはずである。わかりそうで、実際なにもかも分からないのが悲しい話だ。
ふと現実逃避をとりやめて、結局わからず調べていい気になっているだけかと自重もしたくなる。
「手当たり次第に調べているだけです」
男は数秒ほど私を見ていた。それから小さく息を吐くと、紺色の髪をさらりと揺らして顔を背けた。
「……なるほど。それなら、なおさらその論文は遠回りだな」
彼は端末を閉じるように操作した。
「少し待っていろ」
そう言うと、男は本棚の方へ歩いていく。
背の高い背中が、書架の間にすっと消えた。
私はというと、端末の前で椅子に座り直したまま、開かれたレビュー論文のタイトルをぼんやり眺めていた。
隣の端末には、さっきまで彼が居たことを示すような淡く石鹸のような清潔な香りがまだ残っている。潮風に晒された流木を思わせる乾いた香りで、石鹸のような清潔なだけの匂いではない。荒々しい海塩の粒子を含んだような、硬質で、それでいてどこか体温に馴染んでまろやかさを帯びた、知的な静寂を纏った香りだった。静かなアーカイブ室に、潮風のようなにおいと本のにおい、端末の微かな駆動音だけが残る。
本当に待っていればいいのだろうか、と少しだけ思う。
けれど、さっきの男の言い方には妙な説得力があって、私は結局そのまま席を立たずにいた。数分もしないうちに、書架の奥から再び人影が現れた。
彼だった。三冊ほどの本を抱えていて、机の上に、順番に置いた。
コト。
コト。
コト。
紙の擦れる音が、静かな室内に小さく響く。
端末の排熱ファンが回る微かなノイズの中で、彼が並べた三冊の本は整然と並んでいた。
「これだ。まずこれを読み、次にこれを」
その指先の動きは、まるで古文書の煤を払うような不思議な静謐さを湛えている。
「『情報の摩耗と再構築――華胥理論への階梯』。……データアーカイブで検索すれば、数秒で全文が表示されるような薄い本だ。だが、知識の断片を網羅することと、先人の思考の筋道を辿ることは同義ではない。電子の海に沈んでいないこの『紙』の感触こそが、初学者の浅はかな跳躍を繋ぎ止める楔になる」
淀みのないその言葉は、まるで私という生徒のために彼が今さっき組み立てた、最短にして最良の教育プログラムのようだった。
彼は本の端を、蓋の閉まっている万年筆の先でトン、と軽く叩く。その瞬間、古びた紙が小さく「パフ」と溜息を吐き、長い年月閉じ込められていたインクの匂いがふわりと舞った。
「これは初学者でも分かりやすい。……文字という不便な記号を通じて、他者の知性を脳内に再構築する苦痛を、君はまだ楽しむべきだ」
彼は一冊の本を、大切に扱う骨董品のように指先で軽く整えた。
効率や速度を最優先するこの大学において、彼がこうして「古臭い紙の本」をわざわざ選び出し、その物理的な重みごと私に預けようとする仕草。
そのあまりに真摯な横顔を見ていると、好奇心だけでここに来て、今に至る自分自身が恥ずかしくなってくる。
「……いいんですか?」
思わず聞き返してしまう私に、彼はわずかに眉を動かした。
男は少しだけ眉を動かした。
「何がだ」
「ええと……その」
本と彼の顔を見比べる。
「私、専門でもないのに」
彼は一瞬だけ黙った。
それから、こちらの浅はかな遠慮を見透かしたように、喉の奥でわずかに低く笑った。呆れているというよりは、子供の取り越し苦労を切り捨てるような、どこか無愛想な慈しみを含んだ響きだった。
「専門かどうかは今は関係ない」
本の表紙を指で叩く。
「理解したいなら、ある程度順序がある」
そう言って、残りの二冊も机の上に並べた。
「まずこれを読み、次にこれだ。そして最後に……さっきのレビュー論文に目を通せ。いいか、順序の試行錯誤はその後でいい。好きに道を外れてもいいが僕はそこまでの面倒は見ない」
彼は最後の一言を置くと同時に、私の手元にあるノートの余白を、まるで「ここを埋めろ」とでも言うように指先でトン、と叩いた。
そこでようやく、彼は伏せていた視線を上げ、私を真っ向から見据えたことで改めて人として再認識する。整った顔立ちだった。直前の講義で見た石膏の仮面が、そのまま血の通った肌になったような造形だ。金の月桂冠に似た髪留めに少し目がつられた。
研究者らしい白衣を着ているのに、どこか場違いなくらい均整の取れた体つきをしている。ほんとうに研究者なのだろうか、とぼんやり思った。
桔梗色の髪の隙間から、ガーネットに縁取られた琥珀色の瞳孔が静かにこちらを見下ろしていた。
「そのくらいなら、君でも理解できる」
人の容姿をジロジロ見ていたことを恥じて、わたしは少し俯いたまま頷いた。「理解できる」とそう言った男は机の上に置いた本を指先で軽く整えた。几帳面そうな指の動きで、角が整うのを私は他人事のように、少し俯いた視界の隅でその仕草を追っていた。
「わからない単語が出てきたら、電子アーカイブで調べろ」
顎で端末の方を示す。
「ここにはだいたい揃っている」
「……ありがとうございます」
思わず頭を下げると、男は特に気にした様子もなく、短く頷いた。それから、彼は本の端に指をかけたまま、僅かにページを浮かせ、また静かに閉じた。……パフ、という密やかな紙の吐息が、私たちの間の沈黙を上書きしていく。
「その本を読み終えたら、次はさっきのレビュー論文だ。順番を間違えるな」
「はい、頑張ります」
勢いよく答えた私に、男はわずかに目を細めた。
「……礼を言う暇があるなら、一ページでも読み進めることだ。理解できない箇所があれば、逃げずに思考を続けろ。……ふん、しかし返事だけはいいな」
呆れたような、けれどどこか僅かに温度を含んだ声だった。
それだけ言い捨てると、彼は最短の軌道で身を翻した。翻った白衣の裾が、アーカイブ室の冷ややかな空気を鋭く切り裂き、微かな風の重みだけを私の頬に残していく。
遠ざかっていく高い背中は、迷路のような書架の間を流れるようにすり抜け、一度も振り返ることなく静寂の向こう側へと溶けていった。
しばらくその方向を見てから、私は机の上の本に視線を戻す。
名前も聞かなかった。パッと来てパッと帰って行ったなと呆気にすらとられる。
ただ、白衣を着た、妙に整った顔の男。それだけが妙に印象に残った。
それから数日が経った頃だった。
講義の合間や放課後、私は吸い寄せられるようにアーカイブ室へ足を運んでいた。
周りの学生たちが中庭で談笑したり、サークル活動に勤しんだりしているのを横目に、私はあえて人の少ない電子アーカイブ室の最奥へと向かう。
数歳年上の新入生という立場は、思っていたよりも私を孤独にさせた。若さ特有の無敵な騒がしさの中に馴染めない私にとって、この静まり返ったアーカイブ室の空気と、あの日男から預かった三冊の本だけが、大学内で手に入れた唯一の「居場所」になりつつあった。
あの時、あの男に手渡された本を一文字ずつ咀嚼するように読み進める。難解な数式や概念の海に溺れそうになりながらも、不思議と投げ出す気にはなれなかった。
一ページを理解するのに、一時間かかることもある。それでも、ページをめくるたびに、あの日隣で聞いた石鹸の香りと、あの理知的な声が脳裏に蘇る。
強制されたわけでもない。単位に関係があるわけでもない。
ただ、次に彼に会ったとき、一歩でも進んだ自分を見せたいような気持がある。「退屈そう」に見えたあの男の瞳が和らぐとどんな顔をするのだろうとか、そんな下心だ。簡単に言うと、あのひと何考えてんの? である。まるで恋に似ている。
そうして今日も、私はいつもの壁際の端末席に座り、ノートを広げる。
静寂。端末の微かな駆動音。
その静謐を破るように、背後から人の足音が聞こえてきた。
「……まだ、そこで躓いているのか」
背後から降ってきたのは、静寂を鋭く切り裂くような、低いバリトン。
アーカイブ室の冷ややかな空気の中に、その声だけが確かな質量を持って響く。
ペンを動かしていた指先が跳ね、ノートの上に無様なインクの点を残した。
ゆっくりと振り向く。
視線がぶつかったのは、うっすらどこかで探していたはずの、あの男だった。石膏のように冷ややかで、けれど射抜くような強さを持ったガーネットの瞳が、私を真っ向から捉えている。
白衣の襟元を正し、書架の影から私を見下ろしている。以前よりも少し近く感じるその立ち姿は、静謐なアーカイブ室の風景に馴染んでいるようでいて、どこか場違いなくらい存在感があった。
「三日前と同じ席、同じページだな」
そう言いながら、男は迷いのない足取りで私の隣に立った。
ふわり、と。
すれ違いざまに、石鹸のような清潔な香りが微かに漂った。
「あ……」
彼が身を屈めるようにして、私の手元にある端末の画面を覗き込んだ。
近すぎる。
彼の白衣の袖が、私の肩に触れそうな距離。
私は慌てて、書きなぐったノートを少しだけ横に寄せた。恥ずかしいほど「分からない」という困惑が滲んでいるメモを隠したかった。
男は私の動揺など意に介さず、ガーネットの縁取りがある瞳を僅かに細めて、画面に視線を落とす。
数秒。
沈黙が流れる。
自分の心臓の音が、アーカイブ室の駆動音よりも大きく聞こえてしまうのではないかと不安になるほどの静寂。
男の、節の張った長い指先が、机に置かれた私のノートの端を静かに押さえた。
逃げ場を塞ぐような、迷いのない重み。
彼はそのまま、私の拙い書き込みを検分するように、人差し指の腹で紙の余白をゆっくりとなぞった。
「意外と粘るらしい。……そこらの学生なら進めた時でその本を閉じていたはずだが」
淡々とした、突き放すような物言い。
けれど、彼は視線を画面に向けたまま、僅かに片方の口角を上げた。
「少なくとも、逃げ出すという選択肢は君の頭にまだないらしい」
その声は冷徹な評価のようでいて、ほんのわずかに期待めいたものが混じっているようにも聞こえた。私は返すべき言葉を忘れて彼を見上げた。
「……逃げ出す勇気がないだけです」
ようやく絞り出した私の言葉に、男は鼻で短く笑った。馬鹿にされたというよりは、どこか愉快そうな響きだった。
「結構なことだ。無知を自覚しながらも甘んずることなく学ぼうとするのは、知恵への第一歩だろうからな」
そう言うと、彼は私の返事も待たずに、空いていた隣の椅子を引いて、腰掛ける音が静かな室内に響いた。
「……えっ?」
驚く私を余所に、男は長い足を優雅に組み、当然のような顔で私のノートに手を伸ばした。
「手をどかせ。その書きなぐられたメモを見ていると、僕まで頭痛がしてくる」
有無を言わせない口調。彼は私のペンをひょいと取り上げると、余白にさらさらと図解を描き始めた。
迷いのない、流れるような筆致だった。
彼の声は、さっきまでの皮肉な調子とは違って、耳元で低く静かに響く。教え方は驚くほど端的で、むしろこちらに考えさせる時間の方が長い。教えてるのだろうか……? これが……?なぞなぞの気分にもなってくる。
私は慌てて鞄から予備のメモ帳を取り出し、そこに小さく計算を書き始めた。すると、すぐ声が飛ぶ。
「なぜ別の紙に書く」
隣に座った男はわずかに眉を寄せていた。
「思考は一か所に残せ。後から辿れなくなる。どこで躓いたのかさえもな」
私は慌ててメモ帳を閉じ、鞄の上に押し込む。
それから元のノートを引き寄せ、さっきの計算を書き直した。
隣から視線が落ちてくる。
見られていると思うだけで、手元の文字が妙にぎこちなくなる。
私が手を止めると、男は短く言った。
「続きを考えろ」
「……え」
「いま止まった理由は何だ」
私は少し言葉を探した。
「……式の意味はなんとなく分かるんですけど、その先の変形が、うまく繋がらなくて」
男はノートを見たまま、軽く頷いた。
「ふむ」
ペン先で私の式の途中を軽く叩く。
「間違ってはいない」
視線がこちらに向いた。
「だが、考え方が急ぎすぎている」
私は思わず顔を上げる。
「焦る必要はないんだ。よく考えろ」
彼はノートの余白に短く式を書き足した。
「いいか、華胥理論の本質は情報の『量』ではない。観測者の『認識精度』にある。この数式をよく見ろ……」
的確ではある。数時間悩んでいた霧が、彼の一言で鮮やかに晴れていくのが分かった。
思わず口走ったのであろう私の言葉に、男の手が止まった。彼はペンを置くと、横に座る私をじっと見つめた。
狭いアーカイブ室の個別ブース。隣り合う椅子が触れ合うほど近く、彼の体温がじわりと肌に伝わってくる。
「……ようやく、その鈍い思考の回路が繋がったか」
呆れたような、けれどどこか満足げな響き。吊り上がっているはずの赤い眉尻がやれやれ言い出しそうなまろやかさをともなっている。彼は私のノートの余白、今教えたばかりの数式を細長い指先でトン、となぞった。
「いいか。理解とは単なる情報の蓄積ではない。宇宙の理と君の脳が同期する、一瞬の火花だ。……その顔を見る限り、少なくとも今は、君の脳細胞も仕事を放棄してはいないらしい」
「……言い方、ひどくないですか?」
私が思わず口を尖らせて見上げると、彼は逃げるどころか、さらに身を乗り出してきた。
彼の白衣の袖が、私の肩を優しく圧し潰す。
顔が近い。
至近距離で見る彼の顔は、大学の紹介ポスターで見かけたあの「冷徹な石膏仮面」とは、あまりにもかけ離れていた。学生たちを震え上がらせるための無機質な偶像。あるいは、バカアホマヌケな人間を見ると死にたくなる難病でも患っているのではないかと噂される、例のスーパー有名人にしてスーパー変人。
「事実だろう?」
――けれど、いま私の隣にいるこの人は、あまりにも「人間」が過ぎる。
吊り上がっているはずの眉尻が、私の無知をあざ笑うようにまろやかに揺れ、その唇は皮肉げな弧を描きながらも、目尻と同じようにどこかこってりとした、まろやかな顔つきで私を見ていた。
絶対に別人であって欲しい
もし、あの噂ばかりの石膏教授の中に、こんなにも鮮やかな色彩と温度が隠されているのだとしたら、私は違う意味で「おのれベリタス・レイシオ」と膝をつくかもしれない。別人であって欲しい。ベリタス・レイシオは筋金入りの人間嫌いだととも言われている。シンプルに授業で忙しいのかもしれないが、こんなアーカイブ室の隅で、凡人の思考の迷走に付き合うような真似をするはずがない。
――なのに。 なぜ、この人の纏う海塩の香りは、あのポスターの前ですれ違った瞬間の匂いと、これほどまでに酷似しているのだろう。
答えの出ない疑念に、私の思考がショートしそうになったその時。
至近距離で私を見据えていた彼が、ふっと鼻先で笑うような気配を見せた。その低い声が、私の耳朶を直接震わせる。
「……何を呆けているんだ」
「……っちが。ただ、あまりにも言い方が、その」
「事実だ。君がここで三時間、無益な唸り声を上げながらインクの染みを量産する間……僕はその隣で、君の悲惨な論理の迷走をずっと眺めていた」
「……っ、さ、三時間も見てたんですか!?」
驚いて声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
静かなアーカイブ室で、私の声が小さく反響した。
彼は意地悪く口角を上げると、椅子の背もたれにゆったりと身を預け、私の反応を慈しむように目を細めた。
「僕の時間は貴重だ。……だが、君がその『答え』に辿り着く瞬間の、その間抜けで、ひどく無防備な表情を拝めるなら、三時間程度の先行投資は安いものだとも思ってな」
「……間抜けって」
「……ふん。もっとも、その程度で喜んでいるようでは先が思いやられるが」
彼はそう言いながら、またペンを手に取った。
次はこれだ、と言わんばかりに新しいページが開かれる。その指先は私の手に触れそうなほど近くを彷徨っていた。
「このページも君には難解だろう。……だが、教えがいはありそうだ。君のその、無垢で、恐ろしいほど真っ新な『無知』は。そのうち輝く努力の形にもなる」
こんなに温度があって、意地悪で、私個人を執拗に見つめてくるこの人が。
あの、石膏を被った「無機質な記号」のようなレイシオ教授であるはずがない。
私はそう自分に言い聞かせながら、隣の人と石膏仮面が違う人であれと、願い始めていた。
チョークを投げて学生を追い出す鉄仮面と、三時間も私の隣で根気強く答えを待ってくれるこの人が、同じ心臓を持っているはずがない。そう思う。
「理解したか?」
「はい、ええと、少しだけ。……さっきよりかはまだなにが書いてあるのか読めそうな気はしてます」
正直な感想を伝えると、男はわずかに眉を寄せ、それからふいと視線を逸らした。
「……当然だ。凡人が真理に辿り着くための道筋を、僕も何度も引き直したのだからな。理解できないはずがない」
その声音には、誇りというよりも、自分自身にも他人にも「できて当然」という呪いをかけているような、どこか切迫した響きがあった。西日に照らされた彼の横顔は、あまりに整然としていて、けれど同時に、絶え間ない思考に削り取られているような危うさがあって、私は一瞬だけ言葉を忘れた。
「……君がその程度の理解で満足し、思考を止めるというのなら、僕の費やした時間は単なる徒労に終わる。……続きだ。手を動かせ」
彼は自らの卓越した頭脳を、特別な才能ではなく、ただ「凡人が成すべき当然の努力」として切り捨てていく。
そのあまりにストイックな姿を見ていると、彼をあの石膏仮面の「天才」教授と結びつけること自体、この真摯な「先生」に対して失礼なことのようにさえ思えてくる。
この人は、きっと誰よりも「無知」を恐れ、誰よりも「凡人」であることを自覚しながら戦っている人なのかもしれない。
冷たい仮面の裏側で、世界を拒絶しているはずのベリタス・レイシオとは、きっと心臓の形からして違うのだろう。
難しいはずの理論が、彼の声を通すと不思議なくらい頭の中に落ちてくる。
複雑に絡み合っていた数式が、彼がペンを走らせるたびに、まるで最初からそうあるべきだったかのように解きほぐされていく。
──すごい人だ。
単純な感想だった。
知識の量だけではない。物事の捉え方、思考の組み立て方、そのすべてが洗練されている。
まるで、今まで自分が歩いていた暗闇に、突然、巨大なサーチライトを突きつけられたような衝撃。自分の世界が、彼という人間によって鮮やかに拡張されていくような感覚だった。
胸の奥が、妙にざわついている。
この高揚は、単なる理解の喜びか、それともこの「知性の塊」のような人物に対する畏怖なのか。
自分でもまだよく分からない。
ただ一つ確かなのは──
私は、この人に自分の考えを伝えた瞬間の、あの僅かに緩む表情が見たかった。
もっと知りたい。もっと教えてほしい。
この気難しいだろう男が、私というちっぽけな生徒の思考を、どんなふうに塗り替えていってしまうのか見てみたい。
そう願う自分の心が、どうしようもなく弾んでいることに気づいた。
私はまた、アーカイブ室のこの椅子に座り、彼から言葉をもらう時間がくることをひそかに願いはじめていた。
翌日、私は第一真理大学のキャンパスを歩いていた。
腕に抱えた資料の重みが、昨夜のアーカイブ室での居残りの余韻を思い出させる。
本来、歴史系の私が理系の講義棟が並ぶこのエリアに用があるのは、少しばかり稀なことだ。今日は、他学部履修の承認印をもらうため、事務局へ立ち寄る必要があった。歴史文献のデジタルアーカイブ化が進む中、基礎的な情報幾何学の単位は、地味な古文書の解読を志す私にとっても避けては通れない関門なのだ。
「……それにしても、相変わらずここは空気が張り詰めてる」
歴史系の棟が並ぶ旧市街のような落ち着きとは対照的に、この場所はガラスと金属の冷ややかな輝きに満ちている。行き交う学生たちの歩調もどこか速く、誰もが自身の頭脳という精密機械を研ぎ澄ませているような、独特の緊張感があった。
用事を済ませ、少しだけ喉の渇きを覚えて中庭へと抜ける道すがら。
ふと、講義棟の広場にある大きな掲示板の前で、妙な熱気が渦巻いているのに気づいた。
普段なら、最新の論文発表や学会の公示が事務的に並んでいるはずのその場所。
そこには、まるで何かの儀式の告知でも始まったかのような、異様なほどの人だかりができていた。
その中心には、あの石膏仮面の男──ベリタス・レイシオ教授の次回の特別講義を告知するポスターが貼られていた。
厳格な警告文、高い知性を要求する講義内容、そして何より、あの冷酷な石膏仮面の写真。学生たちが「また単位が消える」「チョークの餌食になるぞ」と顔を引きつらせているのを横目に、私はふと、アーカイブ室で教えてくれたあの「男」のことを考えた。
あの白衣の男も、これほどではないにせよ、似たような雰囲気を持っていたかもしれない。
──いや、まさか。
思考を頭の中で振り払う。あの人はアーカイブ室の、少し偏屈な非常勤教員か何かに違いない。大学のトップに君臨するあの石膏仮面の教授が、一学生のメモを覗き込んで、あんなふうに図解を書いてくれるはずがない。あの人は石膏仮面をつけていなかったし、何より、壇上から一方的に言葉を落としてくる教授よりもずっと生身の人間らしく見えた。だから私は、似ていると思いながらも、同じ人物だとは考えたくはない。
似ている、というだけだ。
そういうことにしておくのが一番合理的だった。
私は小さく溜息をつくと、人だかりを抜けて教室へと向かった。
まさか、あの男が「石膏の仮面」の下で、いま自分の講義内容を誰に教えるか考えながら不敵な笑みを浮かべているとは、夢にも思わずに。その日の午後、私は勇気を出して、ベリタス・レイシオの特別講義室のドアを叩いた。
アーカイブ室の彼から教わった「理論の端緒」を、本物の講義で確認したかったからだ。公開講義とはまた違うだろ。恐る恐る最後列の席に座り、前方を見やる。教壇の上には、あの石膏仮面を被った教授が立っていた。
──やっぱり、全然違う。
漂う威圧感も、会場を凍りつかせるような冷気をまとっていそうな雰囲気も、あのアーカイブ室の男とは別次元の存在だ。そう納得しかけた、その時だった。
「……最後に。理解の浅いきみたちのために、一つだけ補足しておく」
教壇の上の教授が、ふいに視線を客席へと投げた。
白い石膏のしたにあるだろう瞳が、数多の学生を通り越し、ピンポイントで私の席を射抜いたようにみえた。
「華胥理論の三章──あの箇所をただの概念として処理し、論理的な接続を疎かにしている者がいるはずだ。認識精度の欠如は致命的であり、甚だしい認識の劣化だ。次回のレポートでは、論理の欠損を埋め、思考の過程というものを証明してもらおう」
……え。
教室中がざわめく中、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。その言葉に、背筋が凍るような緊張が走る。
「論理の欠損」。昨夜、アーカイブ室で私がまさに躓き、彼に指摘されたあの場所だ。
周囲の学生たちは「三章は難しいからしっかり読めってことか」「レポートの評価基準が変わるのか?」と騒めき、必死にメモを取っている。
けれど、私だけが知っている。
私は凍りついたまま、教壇の上の教授を見つめた。
石膏の仮面は何も語らない。けれど、あの時、アーカイブ室で私に向けられたガーネット色の瞳と、今の教授の冷ややかな視線が、不気味なほど重なって見えた。
──いや、まさか。
私は小さく首を振るように息を細く吐いた。講義台の上に立つあの石膏仮面を被った教授と、アーカイブ室でノートを覗き込んでいた白衣の妙に甲斐甲斐しそうな男性が、同じ人物だなんて。そんなわけがあってほしけない。
講義が終わったあとも、私はしばらく席から動けなかった。石膏仮面の教授が出ていくのを視界の隅で追ってしまうのをなかったことにしながら、もういちど考えて整理をしてみる。
タイミングとしてものすごく都合がいい。なにせわからないものを調べて居たら親切な男性に手助けしてもらえたから、次も、と思いまた来ている。そもそも私の専門は別の分野だ。
華胥理論の話題も、有名な議題だから講義で触れられただけなのかもしれない。
流行りのテーマなのだろう、とその程度に思うことにした。
それでも石膏の仮面がこちらを向いたとき、視線が合った気がした。
頭の中では、さっきの三章の式と、アーカイブ室で書き直したノートの図が、何度も重なってはほどけていく。
うまく掴めそうで、あと少しのところで逃げる。
──やっぱり、もう一度確かめたい。
そんなことを考えているうちに、気がつけば私はまた電子アーカイブ室へ足を向けていた。
気がつけば、私は何度も電子アーカイブ室へ足を運ぶようになっていた。
最初は、講義で聞いた単語を確かめるためだけに。
華胥理論の三章をもう一度読み直してみたり、関連する論文をいくつか拾ってみたり。理解できたとは言い難いが、少なくとも何が分からないのかくらいは、少しずつ見えてくる。
通う回数が増えるにつれて、顔も覚えられてしまったらしい。
「また来ましたね」
端末の受付にいる司書が、軽く笑いながらそう言った。
「最近この席、多いですね」
言われてみれば、私はいつも同じ端末席に座っている。
壁際の、一番奥の席だ。人通りが少なく、ノートを広げても邪魔にならない。
机の上には、読みかけの本が少しずつ積み上がっていった。
華胥理論の入門書、レビュー論文、関連する数学の基礎書。
その中には、アーカイブ室で見つけたものも混ざっている。
『星神と運命の道』
『反物質軍団観測報告』
それから、天才クラブの研究者をまとめた『天才クラブ人物誌』。
『天才クラブ人物誌』については、どうにも風俗史めいた俗説が多くて、半分くらい茶化すような気持ちで読んでしまっている。
ああ、あとその本と本の隙間に、華胥理論のレビュー論文が挟まっている。
最初の頃は、公開講義のあとにそのままアーカイブ室へ寄る、という流れだった。
けれど、あの石膏仮面の講義は、理解するというより知らない単語でがなり散らかされるような、シンプルに殴られる感覚に近い。
「ベリタス・レイシオ……粘れば単位は貰えるかもしれないけど心が……」
そう言いながら魂の抜けた顔で机に突っ伏す学生を、私は何人も見てきた。
なぜかその愚痴の聞き役になることばかりだったし、いくぶん末路のようなものはよく見てきた。講義のあとにアーカイブ室へ直行する習慣は、いつの間にか消えその代わり、講義のない時間にふらりとここへ来るようになった。
自分の専門の課題もあるし、研究計画も進めなければならない。
専門外のあたらしいことに深入りするつもりは、本当はない。
……ない、はずなのだけれど。
気がつくと、また寄り道で違うページをめくっている。
理解できたわけでもない。
ただ、もう少しで何かに手が届きそうな気がして、
その「もう少し」を追いかけてしまう。
そんなふうに、ぼんやり本を読んでいる時間が増えていった。
そしてその本の山の上から、白衣の長い指が一冊を引き抜いていくのが見えた。
埋もれていたはずの『天才クラブ人物誌』だ。
顔を上げると、いつもの白衣の男が私の隣で本のページをぱらぱらとめくっている。
紙が擦れる音が、静かなアーカイブ室の空気にやけに大きく響いた。
この本に載っているのは、いわゆる「天才クラブ」と呼ばれる研究者たちだ。
宇宙でも指折りの頭脳ばかりが集められているらしい。
……そして、噂では。
その勧誘を断ったとか、断られたとか、色々と尾ひれのついた名前もいくつかある。ベリタスレイシオは天才クラブには入れてない<ヌースからの一瞥を貰えていない>いろいろかんがえる可能性をなかったことにしながら、私はわざとページを覗き込まないようにしながら言った。
「ええと……半分くらいは与太話みたいですけど」
男はページをめくる手を止めた。
「ほう」
ほんのわずかに、口元が歪む。
「君は天才クラブに興味があるのか?」
「興味というか……」
私は少し肩をすくめる。
「研究者の人生って、だいたいこんなものなのかなって思って」
「こんなもの?」
彼は本を閉じて、机の上に軽く置いた。
「奇人変人ばっかりで」
男は鼻で短く笑った。
「概ね正しい」
男は閉じた本の表紙を指先で軽く叩いた。
「もっとも、そこに書かれているものを全部真に受けるのは感心しないがな」
「やっぱり与太話ですか」
「半分は脚色、半分は観測者の願望だ」
彼はそう言って、本を私の手元に戻した。
「天才という言葉は便利だ。理解できないものを乱暴に分類し、遠ざけるのにちょうどいい」
私は思わず瞬きをした。男は視線を本に落としたまま、淡々と続ける。
「だが、書かれている人間にも生活がある。失敗も、停滞も、退屈もな。奇人変人の一言で片づけるには、いささか雑だ」
そこまで言って、彼はほんの少しだけ口元を歪めた。
「……まあ、概ね正しいという評価自体は否定しないが」
思わず吹き出しかけると、男はちらりとこちらを見る。
「何がおかしい」
「いえ。ちゃんと否定しないんだなって」
「事実を訂正するほど暇ではない」
私は思わず笑いそうになって、本に視線を落とした。
「じゃあ、先生もだいぶ奇人変人寄りなんですね」
「“も”とは何だ」
「その本の中の人たちです」
男は鼻で短く笑った。
「きみは随分と気軽に人を分類する」
「だって、すごい人って大体ちょっと変じゃないですか」
「都合のいい解釈だな」
そう言いながらも、彼は本を取り上げようとはしなかった。
むしろ、私が次に何を言うのか待っているようにさえ見えた。
むしろ、私が次に何を言うのか待っているようにさえ見えた。
沈黙が落ちる。
けれど、それは気まずいものではなく、どこか試されているような静けさだった。
私は本を閉じかけて、やめる。
代わりに、ページの端を指先でなぞりながら、小さく息を吐いた。
「……でも」
自分でも驚くくらい、言葉が勝手に続いた。
「こういう人たちって、途中でやめたりしないんですよね」
男の視線がわずかに動く。
「途中?」
「研究とか。いろなものを。……完成させてしまうか、結果がみえたからやめただけで、やだなとかそういう感情だけで投げ出さないというか……変な話ですけど、どこで折れるのか分からないまま進んでる感じがして」
うまく言えている気はしなかった。
それでも、彼は口を挟まなかった。
ただ、こちらを見ている。
「だから、与太話でも……考え方とかその人生来のものが気になるというか」
そこまで言って、私は自分の言葉の曖昧さに苦笑した。
男は一拍置いて、わずかに目を細めた。
「……なるほど」
短くそう言ってから、視線が私のノートへ落ちる。
書き散らした式、途中で止まった計算、矢印と二重訂正線だらけから辺に生まれてしまだている余白。
それを一通り眺めてから、彼は指先で軽くその端を叩いた。
「きみは、理解できないものを放置するのが苦手らしい」
私は思わず顔を上げる。
「……そう、見えますか」
「雑に見ていても、その傾向は強いだろうな。……それにしては、随分と遠回りな思考の跡だが」
彼はそう言うと、私のノートに書かれた数式の「横」に小さく記された、言葉のメモを指先でなぞった。
「数式をただの無機質な記号としてではなく、一つの『文脈』として読み解こうとしている。最短の論理を追うべき理系の学生には、まず見られない奇妙な癖だ。きみの思考は、抽象的な真理を強引に自分の知っている『形』へ引きずり込もうとしているな」
彼は椅子の背もたれにゆったりと身体を預け、長い足を組み直した。その動作一つひとつに、焦りのない、年上の男性特有の柔らかな余裕が滲んでいる。
「……ふん、興味深い。その歪んだアプローチの源泉がどこにあるのか、少しばかり気にかかる」
そこでようやく、彼は探るような、けれどどこか楽しげな温度を孕んだ瞳を私に向けた。
「きみの専門は何だ。初学者にしては、あまりに諦めが悪すぎる」
不意に投げられた問いに、私は少しだけ言葉を探した。
まさか、この「学術界のアイコン」に酷似した男性に、自分のしがない専攻を明かすことになるとは思わなかったからだ。
「……歴史系、です。それも、文献を読み解くような、地味な方の」
私の答えを聞いた瞬間、彼はわずかに喉を鳴らして笑った。呆れているというよりは、想像内だったというような、密やかな響きだ。
彼は私が書き殴った数式のすぐ横に、自分の万年筆の先を静かに置いた。
銀色のペン先が、紙の繊維をかすかに沈める。
「……歴史か。道理で、数式にまで情緒を持ち込もうとするわけだ」
彼の唇からこぼれた言葉と共に、ふわりと、その清涼な気配が、アーカイブ室の古びた紙の匂いを塗り替えるように私の周囲を侵食していく。隣り合う椅子の距離から伝わってくる彼の熱が、その香りをいっそう鮮やかに沸き立たせ、私の思考の輪郭をゆっくりと、、麻痺させていく。
「効率的とは言い難いが……その粘り強さだけは、専門外の領域を侵食する武器になり得る。続きをしろ」
彼は私のノートの端を、親指の腹でぐいと押さえ込み、そのまま自分の方へとさらに引き寄せた。
「きみが見ているのは数式ではなく、そこに介在した人間たちの意思なのだろう。効率的とは言い難いが、……その粘り強さだけは、専門外の領域を侵食する武器になり得る。続きをしろ」
彼は私のノートを、自分の方へとさらに引き寄せた。
ノートを引き寄せられたあの後から、気がつけば、アーカイブ室のこの隅の席は、私一人だけのものではなくなっていた。
窓の外では、季節が少しだけ歩みを進めている。
講義の合間、あるいは放課後。私がいつもの端末に明かりを灯すと、示し合わせたわけでもないのに、数分もしないうちにあの独特な石鹸の香りが背後に漂うことかあった。
第一真理大学の中庭は、正午を過ぎると「知の敗北者」たちが上げる断末魔の溜息で満たされる。
私の座る円卓は、いつの間にか四方八方から差し出される「折れた心」を受け止める、臨時の野戦病院のようになっていた。運び込まれてくるのは、レポートの評価に撃ち抜かれた者、講義中の一言で再起不能になった者、そして自尊心を原型ごと削ぎ落とされた者たちだ。
もっとも、私は医者でもなければ治療ができるわけでもない。
せいぜい、甘いものや飲み物を押しつけて、泣く以外の呼吸の仕方を思い出させる程度の応急処置しかできないのだけれど。
「……もう、立ち直れません。あの人は、脳みそが筋肉でできてるんじゃないですか? 『君の論理は、石鹸の泡よりも脆く、中身が空っぽだ』なんて、全学生の前で……」
目の前で、ランチボックスを広げたまま再起不能になっているのは歴史学部の後輩だ。
「まあまあ。彼がわざわざ指摘したってことは、そこを直せばあなたの論文は化けるってことじゃない?」
「ディセさんは楽観的すぎますよ! あの石膏仮面、僕が質問しようとしたら、チョークを指に挟んで『これ以上無知を晒すなら、君の眉間を標的にせざるを得ない』って笑ったんですよ!?」
私は彼らの阿鼻叫喚を BGM に、現実逃避するように鞄から一冊の学術雑誌を取り出した。
まだ切り離されていないページにペーパーナイフを差し込み、スゥと裂く。厚手の更紙が指先で捲られるたびに、パサリ、パサリと、乾いた無機質な音が会話の合間に落ちる。
「それは……確かに、ちょっと物惣ね」
私は苦笑いしながら、自分の冷めた紅茶を一口啜った。
「……ディセさんはいいですよね、あの人の講義取ってなくて。……『君の回答は、暗闇で黒猫を探すようなものだ。そもそも、そこに猫はいないがな』……僕、三日三晩寝ずに書いたんですよ……」
別の後輩が、自分のレポートで顔を覆って震えだす。私は持っていた厚めの資料集の角で、彼の肩をトントンと軽く叩いた。
「猫がいないなら、次は犬でも連れていきなさいな。……ほら、顔を上げて。三日寝てないなら、今すぐ寮に戻って寝ること。思考が止まってるのは、あなたの能力じゃなくて、単なる睡眠不足のせいよ」
「……もう聞いてくださいよ! 『君の論理飛躍はもはや芸術的だ。物理法則を無視してファンタジー小説でも執筆してはどうか』って! 僕、物理専攻ですよ!?」
泡を飛ばして憤慨する物理学徒の口元に、私は封を切っていない個包装のビスケットをそっと押し当てた。
「はい、糖分補給。喋りすぎると余計に頭が回らなくなるよ。……まずは噛んで、飲み込んで、それから深呼吸」
重たい雑誌のページをめくり、インクの匂いを嗅ぐことで、辛うじて正気を保つ。
風に煽られた誰かのメモ用紙がカサリと音を立て、私の足元を掠めていった。その乾いた音が、どうしようもなくアーカイブ室の静寂を思い出させる。
周囲のテーブルからも、「おのれレイシオ」「教育の皮を被った虐殺者」といった不名誉な二つ名が、昼食の湯気と共に絶え間なく立ち昇っている。合間に10年間アンチしているらしい人の話も飛び交った。え、あの人っていくつなの?
――その時だった。
賑やかだったはずの中庭の空気が、一瞬だけ、真空になったような錯覚。
学生たちの笑い声や食器の触れ合う音が、厚い膜の向こう側へ遠のく。
ふわり、と。
生ぬるい昼下がりの風の中に、場違いなほど「冷ややかな熱」を帯びた気配が混じった。
石鹸のような清潔感の奥に潜む、海塩の粒子と、潮風に晒された流木を思わせる乾いたウッディな香り。
(……あ)
心臓の奥が、冷たい指先で弾かれたように跳ねた。
この香りは知っている。
アーカイブ室の、あの薄暗い静寂の中で。私の思考を麻痺させ、ノートの余白を侵食していった、あの「彼」と同じ香りだ。
私は弾かれたように顔を上げ、喧騒の向こう側を凝視した。
行き交う白衣の群れ、急ぎ足で通り過ぎる学生たち。
その人混みを割るようにして、一際高い背丈と、軍隊のような無駄のない歩調で去っていく後ろ姿が、一瞬だけ網膜に焼き付いた。青と白がおおくて締め色に黒を使うような特徴的な服。
「……ディセさん? どうしたんですか、急にそんな怖い顔して」
後輩の声で、ようやく世界の音が戻ってきた。私は自分の胸元をぎゅっと押さえた。指先が、微かに震えている。
(……まさか。そんなはず、ない)
あんな傲慢な暴君が、こんな日向の喧騒に、生身の姿で混じっているはずがない。ましてや、私のすぐ近くを通り過ぎていくなんて、もっとない。
あの人は、アーカイブ室という閉鎖された聖域にだけ現れる、私だけの「名前のない先生」でなければならないのだから。
「……なんでもない。ちょっと、変な予感がしただけ」
私は残りの紅茶を飲み干した。けれど、喉を通る冷たい感触さえも、鼻の奥に残るあの「知的な静寂」の香りを消し去ることはできなかった。
あの日ポスターの前ですれ違った瞬間の匂い。
いま、中庭を通り過ぎた「暴君」が残した匂い。
そして、今から会いに行くだろう「彼」の匂い。
三つの点が、私の脳内で一本の線に繋がろうとしている。
私はそれを全力で振り払うように、逃げ込むようにアーカイブ室へと向かった。
いつもの壁際の端末席。 そこへ座れば、また「別人だ」と自分に嘘をついて、彼に甘えることができるはずだった。
ノートを開き、あえてペンを動かさずに、彼がやってくる気配を待つ。来なければそれでもよかった。アーカイブ室の冷たい静寂と、端末の排熱音。ここさえ守り抜けば、あの石膏の仮面も、中庭で聞いた罵声も、全部なかったことにできる。 そう信じて、深く、深く息を吐き出した時だった。
「——随分と、深い溜息だな」
心臓が跳ねる。 聞き慣れたはずの、あの清潔な香りと共に、理知的なバリトンが真後ろから降ってきた。 ゆっくりと、いつものように私の隣に彼が腰を下ろす。椅子が触れ合う微かな振動さえ、今は警鐘のように聞こえてしまう。
「……来てくださったんですね、先生」
私は顔を上げずに、絞り出すような声で言った。 どうか、いつものように不愛想で、けれど静かな「アーカイブ室の先生」でいてほしい。そんな祈りをあざ笑うかのように、彼は私のノートを検分する手を止め、ふっと視線を窓の外、さっきまで私がいたあの中庭の方へと投げた。
「……中庭で、随分と賑やかなピクニックテーブルを開いていたようだな。教育者の皮を被った『暴君』とやらへの、供養のための茶会か?」
その一言で、アーカイブ室の聖域は音を立てて崩れ去った。
「教育者の皮を被った暴君」——中庭で後輩が泣きながら吐き捨てたその言葉を、まさか本人だと思って疑っている人の口から、しかもこんなに「まろやかな」声音で聞くことになるとは思わなかった。
アーカイブ室のいつもの席。隣に座った彼は、私のノートを検分する手を止め、ふっと視線を窓の外へ投げた。衣服には白衣と黒いシャツと青いベスト。チェーンのついた眼鏡
はいまはしてなったもののだいたいいつも通りだった。思えば黒いシャツに例の石膏きようしと同じ要素を感じる。疑いが極地にあるからだろうか。
「……中庭で、随分と賑やかな野戦病院を開いていたようだな。教育者の皮を被った『暴君』とやらへの、供養のための茶会か?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 私は持っていたペンを落としそうになり、慌てて指先に力を込める。
「……な、なんで、それを」
「聞こえていたと言っただろう。僕の耳は、無意味な喧騒をフィルタリングするようにはできているが、度を越した『愚鈍の合唱』までは防ぎきれん。特に、君がその中心で、聖母のようにビスケットを配り歩いている姿は……ふん、滑稽ですらあったな」
彼はそう言って、私のノートの余白を指先でトントンと叩いた。
「それで? その『暴君』に心を折られた哀れな羊たちを慰めて、君自身の思考までその脆弱な泡に浸食されたというわけか。今日の君の筆致は、いつにも増して迷走している」
顔が、じわじわと熱くなる。 見られていた。あの中庭の、あの喧騒の中に、彼は「石膏の仮面」も被らずに、確かに存在していたのだ。
「……別に、慰めてたわけじゃありません。ただ、あまりにもみんなが……あの、レイシオ教授にボロボロにされてたから、つい」
「ボロボロ、か。適正な評価を『攻撃』と受け取るのは、弱者の共通項だな」
彼は椅子の背もたれに深く腰掛け、組んだ足の膝を私の椅子の端に、ほんの少しだけ触れさせた。 その、拒絶を許さないほど自然な物理的距離。 ふわり、と。 中庭で風に乗って届いたあの「潮風と石鹸」の香りが、今度は逃げ場のないアーカイブ室の空気と同化して、私の肺を直接満たしていく。
「君は、その暴君をどう思っている」
射貫くようなガーネットの瞳が、私を真っ向から捉えた。 逃げられない。 石膏の仮面の下にあるはずの、氷のような冷徹さ。 けれど、今ここで私を見つめているこの瞳には、それとは正反対の、粘りつくような熱が宿っている。
「……私は」
唇が震える。 「別人であってほしい」という願いが、彼の発する圧倒的な「知性の圧力」に、音を立てて砕かれていく。
「……先生は、あんなふうに……あんなに、酷いことは言わない、と思ってます」
それは、自分でも驚くほど子供じみた、切実な拒絶だった。 彼は一瞬だけ、目を細めた。 それから、喉の奥でくくくと、低く、低く笑った。
「酷い、か。……ふん」
彼は一度言葉を切り、組んでいた脚を組み替えた。わずかに動いた彼の膝が、私のスカートの裾をかすめる。彼は私の困惑を愉しむように、けれどその実、こちらの反応の一片すら逃さない検分者の眼差しで私を凝視した
「僕はいつだって、相手の脳細胞が受容できる限界値まで、真実を薄めて話してやっているつもりだが」
その言葉。 その、傲慢なまでの自負。
「……あ」
脳裏で、ポスターの中の石膏仮面が、ガシャンと音を立てて割れた。 割れた仮面の下から現れたのは、隣に座る人の顔だ。彼は椅子の背もたれに腕を預けると、逃げ場を塞ぐように、視線だけでこちらを捉えた。
「やっと、その鈍い思考の回路が繋がったか。……それとも、僕に、わざわざあの『不自由な石膏』を被って見せてほしいとでも?」
「……ドクター、レイシオ……せんせい……」
絶望に近い吐息が、アーカイブ室の冷ややかな空気に溶けていった。 私が絞り出したその歪な呼び名を聞いた瞬間。彼はこの上なく愉しげに、ガーネットの瞳をすがめるように歪ませた。
「……ふん。その呼び方の方が、今の君にはしっくりくるようだな」
宣告だった。逃げ場を塞ぐ、知性の檻。 私は指先を震わせたまま、逃げるように視線を落とした。目の前のノートに刻まれた、あまりにも鮮やかで残酷な「証明(数式)」。それまでの「名もなき優しい先生」という虚像が、知性の奔流に押し流され、バリバリと音を立てて剥がれ落ちていく。
けれど、彼は私の混乱を置き去りにしたまま、ノートを閉じるでもなく、開いたままのページに再び視線を落とした。
「……それで」
不意に、彼の声音から愉悦の色が抜け、教師としての冷徹な平熱が戻る。
「君の名前は、妙なところでよく聞く。僕の講義で心を折られた学生たちの、一時的な『避難先』としてな」
「……避難先、ですか?」
顔を上げられぬまま問い返すと、彼は椅子の背もたれに重みを預け、私とノートをまとめて俯瞰するように鼻で笑った。
「一度離脱した者が、そのまま戻ってこないのは珍しくない。むしろそちらの方が自然だ。真理の重みに耐えきれぬ脆弱な持続力など、学術の場には不要だからな」
節の張った指先が、机に置かれた私のノートの端を、規則正しいリズムで軽く叩く。コン、コン、コン。 乾いたその音は、まるで私の心臓の鼓動を検分し、秒読みを開始しているかのようだ。
「だが、ここ最近、いくつか例外があった。……戻ってきた。論理の欠損を抱えたまま、再び席に座る愚か者がな」
そこでようやく、ガーネットに縁取られた琥珀の瞳が、射抜くような鋭さを持ってこちらへ向く。
「理由は単純だ。折れた思考を、どこかで継ぎ直している者がいる。……君のような」
まるで、あの中庭での「ビスケット配り」の真意を、その裏にある私の「知性への誠実さ」ごと暴くような一言。私は、彼の指先がなぞるノートの余白を見つめたまま、呼吸の仕方を一瞬だけ見失った。
「……わたしは、ただ、もったいないと思っただけです。せっかく近けたかもしれないのに、誰かの言葉の鋭さだけで諦めてしまうのは……。先生の言葉は、たしかに痛いけれど。でも、その痛みの先にあるものまで捨ててしまうのは、あまりにも……」
言い淀む私に、彼はふっと、潮風の香りを纏わせて身を乗り出してきた。
「痛い、だと? 心外だな。僕は常に、事実を最も摩擦の少ない形で提示しているに過ぎない。君が『重力』に対して不平を漏らさないように、僕の言葉もまた、変えようのない物理法則として受け入れれば済む話だ」
「……その物理法則が、みんなの心をへし折っているんです。猫がいないとか、石鹸の泡だとか。もう少し、こう……オブラートというものは」
「愚鈍という名の病に、砂糖菓子を与えて何になる。不治の病に進行する前に、患部を焼き切るのが教育者の慈悲だ」
彼は大真面目に、一点の曇りもない瞳でそう言い放った。 傲慢。不遜。けれど、あまりにも純粋な「善意」。 彼は本気で、相手を馬鹿にするためではなく、相手を「正解」へ導くために最短のナイフを突き立てているのだ。そのナイフがどれほど血を流させるかには、驚くほど無頓着なまま。
「……ふん。だが、君のその顔を見る限り、オブラートを欲しがっているようには見えんな」
不意に、彼の声から棘が抜け、熱を帯びた「まろやかさ」が戻ってきた。 彼は机に肘をつき、大きな手で自分の顎を支えながら、私のノートを覗き込む。
「ここだ。……この論理の接続、君は三日前、僕が教える前に自力で修正しようとしたな?」
彼が指差したのは、私が一人で悩んで、結局ぐちゃぐちゃに書き直した消し跡だらけの箇所。
「……はい。結局、全然ダメでしたけど」
「ダメではない」
否定は、静かで、けれど断定的だった。
「筋は悪くない。むしろ、君の専門である歴史的視点から数式を解釈しようとしたその試みは、独創的ですらある。……もっとも、数学的な作法としてはマイナスだが、試行錯誤としてはプラス五点だ」
そう言いながら、彼は私の手から、そっと万年筆を取り上げた。 指先が触れる。驚くほど指の長い、温かな手。 彼は私のペンを使い、先ほどの消し跡のすぐ隣に、私の「独創的だった試み」を肯定しつつ、それを正しい形へと昇華させる数式を書き足していく。
「……この部分は、この方が理解しやすいはずだ」
私の使い慣れたただのペンが、彼の大きな指先で軽々と躍り、紙面に鋭い知性の軌跡を描いていく。自分の思考の残骸が、彼の筆致によって鮮やかな正解へと塗り替えられていく光景は、恐ろしいほどに官能的ですらあった。それは、大勢の学生の前でチョークを投げる「暴君」とは、およそ結びつかないほど過保護な、オーダーメイドの教え方だ。 自分の時間を「高価だ」と言い切り、愚鈍を死ぬほど嫌う男が、私の拙い思考の癖を理解し、それに歩み寄って、わざわざ「私専用の道筋」を引き直してくれている。
あんなに怖かったはずの「ドクター・レイシオ」の瞳。 けれど、こうして隣で、私一人のための「先生」として向けられるその視線は、冷たいはずなのに、どこか一方的にこちらへ差し込んでくる。こみあげてしまいそうな気持ちを喉の奥でかみ殺して、私はいつもの素振りを気取ってみせた。
「……ありがとうございます、先生」
「礼を言う暇があるなら、僕が君に割いたこの数分間の価値を、その理解度で証明しろ」
彼は不愛想に万年筆を机に戻すと、立ち上がりざまに私の頭へ、一瞬だけ大きな手を置いた。ポン、と軽く叩くような、それは彼なりの不器用な労いだったのかもしれない。
「明日までに、今の数式を歴史学的な『黄金数』に当てはめて再構築してこい。……逃げ出すことは許可せん。君の居場所は、僕が既に把握しているからな」
去っていく後ろ姿。軍隊のように無駄のない歩調。 アーカイブ室のドアが閉まる音。
私は、熱を持ったままのノートを抱きしめた。 明日からは、もう「優しい先生」という嘘に逃げ込むことはできない。
講義室でチョークを投げ、愚鈍を切り捨てるあの「暴君」が。 私一人のために時間を割き、私の歪な論理を愛おしそうに継ぎ直してくれる。
この甘美な秘密を抱えたまま、私は明日、あの石膏仮面の前に座らなければならないのだ。
「……おのれ、ベリタス・レイシオ……」
私の唇から零れたのは、膝をつくかもしれない挫折感にまみれた幸福な溜息だった。